2019/06/12

三月の前半は悲しく辛い出来事がありました。

伊豆で冬を過ごし始めて,お天気の良い日が多いのでやはりここは北国ではないのだなあ,霜は降りても本当に雪が降らないので、夫が雪掻きに身体を使わない生活が出来るのだ,夫が除雪機を繰り出し、私が灰色の空を眺めて重苦しくのしかかるストレスを感じずに日々を過ごせるのだと、有りがたいなあと色々な人にお礼を言いたくなりました。キッチンと食堂以外の部屋はそれぞれ独立しているせいで、家の中が寒いのにもだんだん慣れて来て、薪ストーブのあるキッチンと食堂で一日の大半を過ごしていれば快適なのだと分かってきました。冷蔵庫が小さいため、山形のように1週間分の買い物は出来ないので、大体3日分かそこらの買い物で生活が上手く回り始めていました。なにしろ買い物に出かけるのが簡単なことには改めて驚きと感動しました。と言っても買い物には一人で行かないと決めていました。家から下りていく道が少し細いので運転技術の未熟な私は恐れを成してしまって、またそこから先の普通の道も山形に較べるとずっと交通量が多く、私の偏見的な印象では静岡県の人は山形の人よりスピードを出しているように思えるので、数ヶ月間なのだから運転はしないでおこうと決めたのです。 よそのおうちというのはなんとなく使い勝手が違うので、最初はまごまごしていましたが、だんだん慣れてきました。よそのキッチンでも自分流の料理が出来上がれば、嬉しいものです。今までの人生を振り返ってみれば、キッチンは何回変わったことでしょうか?フランスのパリ郊外のサンクルーに引っ越した日は着いたのが早朝で、大急ぎでデパートへ行って、家族全員のの羽毛布団を購入し、夕飯は持参した鍋二つで買って来たお肉と野菜でシチュウのようなものを作って食べたっけと、若かった自分のがんばりに拍手したくなったことを思い出します。 1月に入って、それは6日のことでした。京都の弟から電話があり、一番上の弟のお嫁さんから電話があり、彼が胃ガンであと数ヶ月の命だと言われたと言うのです。ガン?健さんが?何それ?どういうこと?いつから?疑問はつぎつぎと湧いてきます。早速私からも健さんのお嫁さんの恵美子さんに電話をして詳しく聞きました。2017年の10月に具合が悪くなって,病院に行ったところ、検査の結果は胃ガンがすでにステージ4になっていて治療としては抗がん剤より他はないとのことでした。手術ではガンは取れず、食べものが通るためのバイパスを造っただけということでした。その後一年と3ヶ月間、ありとあらゆる治療、民間療法なども試したが、ついにお正月過ぎて、食べものが通らなくなり、昨日から飲み物も飲めなくなったというのです。 京都の弟、旭川の弟と相談し、とうちの次男も来てくれるというので、4人で1月13日に見舞いに駆け付けました。自宅で点滴をしながら療養している健さん、大分痩せてはいるものの、話も良くし、まだまだ生きる望みを持ち続けているので、強気に見えました。 しかしその日から腫瘍熱が出始めて、39度にも上がるので、熱が出ると途端に元気がなくなり辛い日々が続いたそうです。 がんばっていましたが、2月18日についに緩和ケア病棟のある近くの野村病院へ入院しました。 2月25日に京都の弟と二人でその野村病院へ見舞いに行きました。その前日には大好きだったドイツ人のペーターさんとお嫁さんの宏子さんが見舞って励ましてくれました。誰もみな思い出話などをしてなるべく楽しかった日々を思い出してもらおうと努めて明るく振る舞いました。 緩和ケア病棟では患者が苦しくないように、あらゆることをごく自然にお世話してくれていました。病室内のシャワー室で身体をきれいにしてくれ、時には口腔ケアまで丁寧にやってくれ、終末期にあることを患者に感じさせないようなケアがされていました。 その見舞いの最中に、私たちの母方の従姉妹の大阪の大井聖子ちゃんが、同じくガンのため終末期にかかっていたのですが、その聖子ちゃんが突然亡くなったという知らせが入りました。彼女は緩和ケアに入って二日目ぐらいで、まだまだ大丈夫そうに見えていたのですが、本当にガンというのは分からないものです。前日まで私とスマートフォンでメッセージをやりとりしていたのに、何と言うことか、突然亡くなってしまいました。まだ55歳でした。 弟の健はその後1週間で、3月4日に天国へ旅立ってしまいました。71歳と6ヶ月でした。 弟のお通夜とお葬式は東京の三鷹の禅林寺の斎場で3月7日と8日に行われました。板橋の叔母が京都の叔父と叔母の代表できてくれました。弟のお嫁さんの恵美子さんと息子の亮介くんと亜矢子さん、亜矢子さんのご両親、娘の祐子さんと平良正智くん、平良さんのお母さん、恵美子さんの実家のお母さんと妹さんの家族、私たち故人の兄弟と配偶者、その子どもたちもたくさんそろってお別れに来てくれました。その他たくさんの人が集まってくれました。 2週間続けて二人の身内を失ったことで、悲しく、天国の父と母に大声で叫びたいのを堪えていました。でもきっと天国で会えただろう。

2019/02/24

薪の積み直し

まだまだ薪ストーブを焚き続けるので、薪を購入しました。杉の薪です。新しい薪を積んださまを見てください。すっきりしました。夫さんはよく働きます。

春の兆しがそこここに。

紫色のムスカリがひとつ、よその敷地の隅っこに咲いていました。この家の庭には、ヒマラヤ雪の下のピンクの花が咲き始めましたし、蕗の薹も出てきました。さっそく蕗の薹のクルミ味噌和えを作ってみました。山形のより苦みが少なかったようです。 筏場のわさび田を見に行ったら、谷底の流れに沿って、わさびの苗が育ち始めていた。たぶん夏の陽射しを遮るためにいまは幹と枝だけの樹木がたくさん植わっているのに気がつきました。

韮山反射炉

2月11日の寒い日、韮山の反射炉に行ってみました。こんな小さな炉で、製鉄をして大砲の弾を作っていたとは驚きでした。小さくても内側が反射することで、高い温度で鉄を熱することができる装置を考えたのはすごいことだったと言えます。 先日訪れた代官江川太郎左衛門英龍は、かねてから海外と向き合うに当たって、反射炉の築造が必要であることを幕府に訴え続けようやく1853年に幕府から命を受けて、取りかかったが完成を見ることなく世を去ったのでした。 この日はとても寒かったので、反射炉前のカフェで手作り甘酒を飲んで暖まって帰路につきました。反射炉の周りには樹齢何百年の大木がそびえていました。

2019/02/03

地ビールと弟の来訪

修善寺の大平というところに  Baird Beer という地ビール製造所を見つけました。アメリカ人のBairdさんという人が作った醸造所です。 京都の弟が来るので8種類それぞれ1本ずつ入った箱で買ってきました。弟は東京へバッグ製作用の生地を仕入れに行った帰りに伊豆のこの家に寄ってくれるのです。

柚子ジャム作り

お庭の西の端に柚の木があり、10個くらい生っていました。棘があるので、注意しながら夫にもいでもらいました。皮のきれいな実を5個使って、ジャムを作ろう。実を横にふたつに切り、種を爪楊枝で取り、ボウルに入れておきます。種からペクチンが出るので、集めたら、すこしの水で煮ます。皮は内側の白い部分をスプーンでこそげ取って、黄色い皮だけを千切りにしたら、2回茹でこぼします。三枚目の写真は種のペクチンをスプーンで掻き出しているところです。半透明のとろとろした部分がペクチンの塊のようです。皮の部分の重さと同じ重さの砂糖を煮溶かして水も適当に足して、コトコトと煮詰めていきます。ゆるめで火を止めて、ちょうど良い堅さのジャムができました。

2019/01/30

あっという間に伊豆生活一ヶ月半が過ぎました。

よく考えてみると、玉庭で雪かき仕事をしていたのは夫であって、私の生活はどこにいてもそう変わりはないのです。 ごく普通のありふれた、当たり前の主婦の仕事をやっているだけです。掃除、洗濯、ごはん作り、でも何かが違うのです。外を見ても白い塊がない! たいていの日はお日さまが出ていて、風は冷たくてもいつでも上着無しで、ひょいと外へゴミ捨てでも、薪積みの手伝いでも、買い物にも出られるのです。 近所のおばあさんが電気自動車でときどき家の裏の元の畑にやってきて、片付けたりしているとき声をかけると、いろいろ昔のことなどなことを教えてくださるのでためになります。 この辺りは60年前の狩野川台風の時にたいへんな被害を受けたそうです。狩野川に並んで流れている大見川が氾濫して、木造の橋がいくつも流され、水没したり流された家も多数あったそうです。狩野川台風というのはあの恐ろしい伊勢湾台風の翌年に来たそうです。そういえばそれは私がまだ小学生の時でした。 1月の二十日にお隣の伊豆の国市韮山文化センターで 「パン祖のパン祭」というおもしろそうなイヴェントがあるとラジオで聞いたので、行ってみました。 パン祖というのは韮山の反射炉を作った江戸時代の代官として有名な江川太郎左衛門のことで、この人は日本で初めて自宅に釜を作ってパンなるものを焼いて今日のパンの元になった乾パンみたいなパンを広めた人なのです。いろいろなパン屋が出店していて、パン食い競争やその他のおもしろそうな人寄せ的なものもありましたが、私たちは大ホールの「全国高校生パンコンテスト」に直行しました。北海道、九州、本州の各地から調理科のある農業高校などから数回の予選を通過したパン職人を目指す高校生が、最終審査に残った20名で賞を狙うのです。スクリーンには各自の工夫を凝らしたパンの写真が写り、おのおのがプレゼンテーションを行い、審査員の質問に答えたりしました。、一旦昼食時に休憩があり、午後に審査の発表が行われました。伊豆の国市の女性市長さんはとてもにこやかで暖かみのある方でした。審査委員長は静岡県の有名なパン職人さん、さていよいよ審査の結果が発表され、一位に輝いたのはネギ農家の娘さんでお父さんの作ったネギとお母さんの大好きなチーズを入れたパンでした。惜しくも一位をとれなかったパンもそれぞれとても工夫と技量を懲らした美味しそうなパンでした。これは来年もまたぜひ来たいと思った、パン好きトトコの感想でした。
帰りに旧江川太郎左衛門邸を訪れ、幕末に繋がる貴重な話や、その頃幕府から広大な管理地(静岡県から今の神奈川県西部までを任されていた代官の偉さを知りました。

2019/01/11

結構寒い伊豆の朝晩、毎朝の真っ白な霜

元旦に天気が良いので、近くの大見城址公園に行ってみました。このあたりは大見様というお殿さまが治めていたようです。お寺の前にそびえるこんもりした山に坂道がありました。一緒に登っていた一段はこのあたりの集落の人たちで、中腹にある建物の中の広間に座って、新年会みたいなことをはじめました。私たちふたりだけ、横のさらに続く草藪と化した細い登山道を上っていくと、フウフウ息を切らしていた私に、富士山の雄姿が迎えてくれました。運動不足、堪えるなあ。夫はのろい私に呆れているけど、足がおいそれと進まないのだから仕方がない。 やっぱり、富士山は素敵で、大きくて神々しい。世田谷や京王線のあたりから見ていた小さな富士山とは違う。 下の方の集落がとてもきれいだ。
新年会が終わるころ帰りがけに通りかかったら、「せっかくご一緒にここまで登ったのだから、差し上げます 」と紅白のおまんじゅうを下さった。こいつは新年早々運が良いなあ。
尾赤アジという大きめのアジを見つけた。これは以前から美味しいことを知っている私。さっそく、魚屋さんに二枚に下ろしてもらって、その夜はお刺身にした。予想通り、美味しかった。鹿児島県産だった。伊豆は海沿いだから遠くから生きのいい魚が入るらしい。 翌日は塩焼きにしたら、脂がありすぎで、魚臭さが台所に残ってしまった。やはりお刺身か、酢〆に限ります。尾赤アジの頭と中骨で潮汁を作ったら、とても美味しかったので、やはり、美味しい魚の潮汁は最高ですね。